湯島天神で義理と人情を考える。
先日、神楽坂からの帰り道、久しぶりに湯島天神に立ち寄ってみました。
この境内で主税がお蔦に別れ話を切り出す場面が有名な、新派の『婦系図』を
その数日前に観劇したので、ふらりと行ってみたくなったのです。
里見弴のほか文筆家らによって、昭和17年に建てられたそうです。
なんと、もともと鏡花の原作にはこの場はなかったそうで、
俳優の喜多村緑郎の発案で、作者があとから書き加えたんですって!
神楽坂の芸者となかなか結婚できなかった鏡花の実体験を下敷きに書かれたといいます。
「私を捨てるか、女を捨てるか」と主税に迫る先生に理不尽な思いを抱かずにはいられませんが、
大恩人である先生への義理は果たさねばならぬ、と主税もお蔦も、つらくとも別れを受け入れるのです。
ところで、今回天神さまに行ってみて初めて知りましたが、ここは講談の高座発祥の地なのだそうで、
男坂を上がったところにある鳥居のたもとに、その記念碑がありました。
境内に住み、ここで活動していた講談師の伊東燕晋が、
文化四(1807)年に家康の偉業を読むにあたり、
庶民と同じ高さでは恐れ多いと、奉行所に高座の設置を願い出て許されたといいます。
病気の親の看病のため不振に陥った佐野山に、谷風が勝ちを譲るというお話です。
この人情相撲、いまだったらとても許されそうにありません。
「受けた恩を忘れないこと」や「困っている人を助けること」は、
しかし江戸の観客はこぞって、「谷風は立派だ」とたたえ、
集まった投纏頭(はな・ご祝儀)は600両余りにもなったのだとか。
佐野山は力士をやめて故郷に帰り、そのお金で米屋を始めて成功したそうな。
「受けた恩を忘れないこと」や「困っている人を助けること」は、
なるほど人として当たり前のことだけれど、これがままならない昨今…。
義理や人情を大事に生きていた時代の人たちは、
いまより不便で窮屈な環境下にありながらも、懐が深く心に余裕があったように思えます。