国技館の度重なる災難

関東大震災で焼け落ちた両国国技館は実は、
それ以前にも相次ぐ災難に見舞われていました。
 
梅ケ谷と常陸山の台頭による相撲人気の高まりを受け、
天候に左右されない相撲常設館が熱望され、

ついに両国回向院境内に建立されたのが明治42年。

国技館」と名付けられました。
 
しかしそのわずか8年後、国技館で催された菊人形大会のあとの失火で全焼していまいます。
 
その翌年には再建に向けて起工したものの、
1年後完成間近というところで、風速35メートルの強風に煽られて鉄骨が崩壊し、

下敷きになった鍛冶職の見習いの少年が即死、数名が重軽傷を負うという大惨事となりました。

 
それでも突貫工事で復旧に努め、それから1年も経たないうちに完成し、
開館式を迎えたのが大正9年のこと。
 
開館の喜びも束の間、その3年後に件の関東大震災が起こり、

再び国技館は焼け落ちたのです。