波瀾万丈の歳月を経て、いまに至っています。
昭和11年からの双葉山の大活躍によって活況を取り戻したのも束の間、
その後の戦況悪化にともなって、19年軍に接収され風船爆弾工場に。
20年3月の東京大空襲では焼けて穴だらけになってしまいました。
それでも5月には非公開で7日間の本場所を開催し、傷痍軍人のみを招いたそう。
終戦を迎え今度は米進駐軍に接収されると、“メモリアル・ホール”と改称、
改装されスケートリンクになってしまいます。
このメモリアル・ホールでは21年11月場所が開催され、
その後は「日本人立入禁止」の札が立てられ、再び相撲興行が行われることはありませんでした。
数奇な運命を辿ったこの国技館は、33年に日大に譲渡されて「日大講堂」となり、
四半期ほどプロレスやコンサートなどの興行に使用されたのち、老朽化のため解体されました。