相撲の固有性

始まりました、春場所
昨日の初日には、早くも今場所もっとも注目されている力士同士の対戦が組まれました。
それぞれ持ち味を発揮し、鶴竜も遠藤もこの場所を大いに盛り上げてくれそうな予感☆

さて前回、相撲は「時代を超えて存続可能なように制度設計されている」と書きました。

そもそも相撲は、十人並みの運動能力と一定の体格さえあれば誰でもプロになれる点で、
ほかのプロスポーツと決定的に異なっています
夫の言葉を借りると、「単なるデブでも」プロになれるばかりか、関取になる場合もある。

一方、野球やサッカーなどにおいては、
生まれつき卓越した身体能力に恵まれた人でないと、プロになるのはむずかしい。

夫が3年ほど前に上梓した『お相撲さんの“テッポウ”トレーニングでみるみる健康になる』の対談では、
作家であり武道家でもある内田樹さんにお相手をしていただき、テッポウの本来の意味を探っていますが、
内田センセイは夫の「単なるデブでも」という言葉に「深く感動」し、「相撲って深い」と思われたそうです。

相撲が古代社会に発祥したときの最優先の課題は、「これを絶やしてはならない」ということだった。
戦技であり、神事であり、芸能であり、呪鎮儀礼であり……
といくつもの社会的な機能を担っていたこの相撲というものを
どうやって1000年、2000年というスケールで継承するか、そのことを考えた。
だとしたら、卓越した身体能力を持った人間にしかできない技術の体系のわけはない。
そうではなくて、かなり生得的な運動能力は低くても、結果的に卓越した「強さ」を発揮できるような
能力開発プログラムを組み込んでいたに違いない。
というのが内田センセイのお考え。

なるほど~、腹に落ちます。
抜きんでた運動能力の持ち主が相撲界に入ってこない時期がしばらく続いたら、
相撲は衰退し、悪くすれば断絶するか、そうでなくても別のものになってしまいかねません。

この「ある程度の運動能力があれば誰でもできる」ように制度設計されていることこそが、
相撲が1000年以上もの間、続いてきたヒミツにほかならない。そう思います。

センセイのおっしゃるところの
「生得的な運動能力は低くても、卓越した強さを発揮できるような能力開発プログラム」
――それが相撲の伝統的な稽古である、シコやテッポウ、すり足なのだと思います。

夫は、シコやテッポウなどの基本の稽古をみっちりやっていた昔のほうが、
筋トレを取り入れるようになった昨今よりも、「単なるデブでも」関取になる率が高かったといいます。

センセイもこうおっしゃいます。
今の相撲はむしろサッカーや野球に近づいている。
際だった運動能力を持って生まれついた人間しか横綱になれないということを誰も変だと思わない。
相撲はそれじゃいけないと思う。
どんな平凡な運動能力の人でも、伝統的な稽古法を愚直に信じて稽古していれば、
先天的に抜群の運動能力を持った人間を倒せる……
そういうものじゃないと相撲として継続できないんじゃないか。

さすが内田樹さん、本質をついた深甚なご見解です。